戦争体験者の宮崎満さん
令和2年になった初春、昭和2年生まれの宮崎満さんと話をする機会をいただいた。
戦争体験した方々の話を聞く機会が少なくなっていくなか、昭和初期の時代変化をこの身を持って感じておきたかった。
記憶をたどり、懸命な様子で語ってくださった宮崎さんの実体験の話は凄まじかった。
宮崎さんは、千人以上の兵士が乗る軍艦伊勢、その第二分隊に所属していた。
第二分隊は、軍艦の前方に位置しており、時に砲撃の操縦室に入って、敵を撃墜させたこともあったそうだ。
日中の銃撃戦は一回に数十分間、気づけば撃たれ亡くなっていく戦友たちを横目に自分は戦いを続けなければならなかった。
甲板で戦死した兵士は、トランペットの演奏と共に、その場で海へと葬ったそうだ。
次は自分の番かと思うと生きた気がしない日々だったと語る。
操縦室は尋常な暑さではなく、食事は上部の扉から、配給食が無造作に落とされ、それをむさぼる。
ただ戦うためだけに生かされている、そんな印象が頭に浮かんだ。
ミッドウェーウェー海戦、レイテ沖海戦、などよく耳にする戦いだが教科書からは読み取れない緊迫した戦地の悲惨さを77年前の一人の兵士から感じた。
日本が劣勢に傾き、敗戦の一途をたどっていく戦況の中、兵士たちはその戦局は知らされることなく組織の命令に従うしかないとのことだ。
片道の燃料を積んだ人間魚雷回天や神風特攻隊に乗り、わずかな攻撃とわかりつつも大切な自分の命と引き換えに、最後まで戦わなければならなかった兵士がいた。
日本は負けていくのだろうと薄々感じながらも。
中には飛行機の故障と偽り、鹿児島あたりで着陸し死を免れた者などもいたそうだが無理もない。
宮崎さんは、六人兄弟の二番目、両親の反対を押し切って自ら出征した。
当時その年齢は、わずか16歳。
赤紙が届く前から自分で兵隊を志願したそうだ。
赤紙を待ったのでは、自分の所属軍隊の希望は聞いてもらえず
陸海空軍を選べないからだ。どうせ出征するなら早いほうが良いと判断したそうだ。
終戦間際、帰還してきた19歳の宮崎さんは呉のある病院で、あの原爆の凄まじい閃光を見たそうだ。
その後広島の焼け野原の片付けに繰り出し終戦を迎えた。
戦後は、徴用工での仕事を経て、家業の織物業を継いで、生計を立てきたそうだ。
こんな悲劇の戦争は繰り返してはいけない。
宮崎さんの実体験を聞いて尚、もちろんそう感じる。
だが、それとわかってもなぜ人は人を殺すのか。
例えばドイツやイタリアのファシズムを例にとっても、単に一人の過激な発想ではなく、その時その状況で善としてきた時代背景や民意が支えたことは間違いない。
どれだけテクノロジーが発達したとしても、人類が全員納得出来るような政治の仕組みを作ることは人間にとって不可能かもしれない。
核をちらつかせて、いさかいを収めていくような現状社会では、またいずれ形を変えた大戦争を繰り返す気がしてならない。
93歳宮崎さんの貴重な実体験の話は忘れてはいけない日本の過去。
進歩めまぐるしく、情報が溢れる現代において、戦争は人類の反省だと、しっかり心に留めておきたい、改めてそう感じた。
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